昭和49年2月13日 朝の御理解

御神訓一、「食物はみな人の命のために 天地乃神の造り与えたまうものぞ」



 神様が、私共の命のために、造って下さった。それが食物。この食物を命の為に頂かなければならんという事が、本当に分かったら、命を害する為になどは、とても頂かれません。
 どうも美味し過ぎたりしますと、食べ過ぎたり、いわゆる暴飲暴食をする。そして、命の為に下さったものを、命を害するものの為に使ってしまう。結局なんでも本当に分かるという事ですね。本当に分かると、本当に分かっていないところに、命の為に下さってあるものを、命を縮めたり、害するものの、ことの為に、食物を頂くというようなことでは、神様に対してもご無礼。
 昨日、美登里会の方達の信心研修がありました。そのあとに、後から、あの、えー、お話しをした事でしたけれども、大変、有り難い、色々な良いお話が出ました。その終わってお茶を頂かせて頂いた時に、お餅が出ました。お茶( ? )あの( ? )黄な粉で。
 そりゃ私共のようにその、入れ歯でありますと、いわば餅が引っ付いてね、( ? )その取れたりするんです。頂きににくいんです。けれども、んー、これはもう私がそうでしたけれども、入れ歯を入れさせて頂くようになったら、入れ歯をとって洗う時も、又はめさせて頂く時も、それこそ、あー、金光様のお歌じゃないけれども、「お世話になりますお世話になりした」と必ずいう、心に言う、いわゆる念ずるわけです。
 ね、そして、いうならば、もう天然に、いうならば生まれた時からですね、小さい時からお世話になってきておった、本当の歯には、ほんのお世話になりますも言ってなかったし、お世話になりましたも言ってなかった事を、改めて最近はお詫びさせて頂いておるという話しをしたことでしたけれども。
 皆さんどうでしょうか。あれはね、教主様が、眼鏡をかけておいでられ、眼鏡を使う時に、「お世話にになりました。お世話になります」( ? )とこう仰っておられるが、本当に、眼鏡をかけんでも、事足りて、ね、小さい、字でも小さいものでも見えておった時に対して、その本当に、目が見えておるという事にどれほどお互いがお礼を申しておったであろうか。食物でもそうです。
 断食なら断食をしてみて、一椀のお粥さんが、もうこよない有り難いものとして、それこそ、御馳走様でしただけじゃない。お世話になります、なりましたが、心から言えれる。ん。
 なるほど、食物は命の為に、もうそれこそ、一椀のお粥さんの、その、力というか、もうしたことです。たいしたものだという事が分かります。それが段々、よりおかげを頂きますと、そのお世話になります、なりましたが、出てこない、実感として。
 私は信心の稽古というのは、そういう他愛もないといや他愛もない。みやすいといや、こんなにみやすいことはない事をです、本当に自分のものにすることだと。だから信心というものは難しいもんじゃないという。ね。
 今まで当り前のように思うておったこと、へー、これは当り前のことだんじゃない。おかげを頂いておったなぁ、と分からせて頂いたところから、信心が始まる。信心はみやすいものじゃが、氏子から難しゅうすると仰せられる。ん。
 難しいところばっかりをみとるから、いよいよ難しゅうなって。信心はもうみやすいもの。ね、そこにです、なら食物はみな人の命の為に天地の神の造り与えたもう、と仰るその、天地の神様の感動を得られないはずがない。喜びを受けられないはずがない。
 何か特別なお御馳走を頂く時だけが、おかげと思うたり。特別のお願いした事が、成就しなければおかげでないような思い方は、これは、根本を無にし、するという。根本をいうなら暴虐した、私は有り難さでありますから、それは対したことはないと思う。
 ん、命のとこう仰る。命という事は一番大切なものです。お互い。どんな大切なものでありましても、ね、それは、命の次の大事なものというもんですから、本当命が一番大切なもの。その命の為に下さってあるもの。
 ね、そこでなら、食物を頂くにいたしましても、ね、あだやおろかなことになってはならないし、本気で命の為にお世話になります、なりましたという、ね、願いと、お礼とが、出来る。
 なるほど信心はみやすいものだ。そのみやすいところをお互いがです、ね、暴虐して、次の何かね、何か特別な、棚からぼた餅が落ちてくるようなお願をして、おかげを受けた時だけ、神様のおかげだといっておるおかげは、それは根のない草のようなものですよ。(うき?)草のようなおかげです。
 その根本になるものは、命に繋がるもの。命の為に下さるもの。造り与えて下さってあるもの。それを頂く時にです、私共が、命を害する為に、頂くといったような、いわゆる暴飲暴食という事になりましょうかね。的なことが、出来なくなってくる。これがいうならば、信心であり、それが信心の根本なの。命、人間の命。ね。
 皆さん、ね、若い方達はまだ、それこそ入れ歯もない。それこそ眼鏡もかけんで済むという人達はです、眼鏡をかけるようになって眼鏡にお礼をいうたんじゃ、ちょっと遅かごたる感じ。ね。入れ歯、その入れ歯にしてしもうてから、初めて気が付くといったような事ではなしにです、私はあの、良い事を聞くという、良い人の話を聞くという、ね、親鸞聖人様が、よき人の話を聞くというような事がありますね。
 ならここでいうならばです、ね、まぁ皆さんの良き人は、親先生じゃなか。もっとさかのぼると、教祖様が、天地の親神様から直々お頂きになったことをみ教え下さってある。良き人の良き言葉を頂く事。ね、それを、私共は、心の糧と申します。
 素晴らしい、良いお話しは、本当に今日のようなお話は、心の糧になると思う。心が清まる。心が有り難うなる。
 そこでです、そのお話そのものがです、ね、はその内容は、どういうことが教えてあるかというとです、例えば教祖様のお言葉を借りると、「難はみかげ」というようなお言葉があります。
 ね、ですから、よいお話の内容というのはです、ね、美味しい者は誰が食べても美味しい。けれども苦かったり、臭かったりするとです、こりゃ苦い、こりゃ臭いとこういうけれども、その苦いものこそ、その臭いものこそです、ね、より命の為にというものを感じる時に、それを辛抱して、臭いものも食べる。苦いものも食べる。そこで例えていうならば、(センプル?)的ね、(センプル?)という薬草がありましょう。又、にんにく的。
 昨日テレビでいってましたね、91歳になるおじいさんが、まだ今から子供をつくるちいいよんなさる。テレビで、その元気があるち。それは、このにんにくのおかげだというて、にんにくを沢山、あの持って来ておられましたがね。
 そげなもんな臭かというて、言わずに、それを食べて、そういう91になったっちゃ、まだ子供を造らせて頂く自信があるというほどしの、矍鑠たる元気を頂いておる。
 なら心においても然りです。ね、心の糧という。ね、心の糧になるというものは、それこそ、ね、ありがた涙をこぼすほどしの有り難いお話という事も、勿論、心が洗い清められますから、ね、有り難いのですけれども、なら、その教祖様のお話の内容というものはです、良き人の言葉というものの内容はです、ね、「打ち向かう者には負けて、時節に任せよ」ね、負けておれと。
 そういう、ならみ教えをです、そん、そげなことは出来ん。もう勝って勝って勝ちぬかにゃというたら、もうそれは糧にはならないことになる。それを、黙って辛抱する金光様と、唱えながら、辛抱するところに、それが本当の意味においての、心の力になる、いわゆる心の糧になる。
 苦い思いをするような事の度にです、ね、苦い顔をせずに、それをね、おかげで胃腸が強うなりますというような頂き方なんです。ね、そういう頂き方がです、出来るようになるという事が信心だと私は思います。
 ね、心の糧というものは、必ずしも、いうならば心が洗い清められるような、なら良いお話というけれども、よい、そういう話ばかりではない。良いお話の内容というものはです、良いお話は、いうなら誰でも良いお話は頂くけれども、その良いお話の内容というものはです、例えば難はみかげというような、内容になってくるのですから、その難儀そのものも、命の為に、自分の心の為に、心の糧のために天地の親神様が造り与えたもうもの。しかもそれが、あなた自身の為に。
 ね、千差万別で、一つの問題というものでも、自分の前に起きてくる問題というものは、そりゃ自分が頂かなければならない糧なんだ。それをおろそかにしては、心の力も付かなければ、心の糧にもならない。
 頂き方ですよ。ね、その頂き方によって、次のおかげに展開してくるんですから。ね、その頂き方がまずいと結局かえって自分の心を害したり、いうなら、命を損なうことの為になってしまうんです。
 ね、だから「難はみかげ」と教祖は仰っておられるけれども、いわば難は難として受けたら、やはり心を害することにしかなりません。
 昨日、私もちょっと驚きましたけれども、んー、直ぐ、はー、おかげ頂いておるなぁと思うてお礼申しあげたことでしたけれど。昨日、あの、一昨日がお休みでしたから、銀行が集金にきとりませんでした。だから、昨日くるはずだった。ここ見たら入ってないから、もう銀行が来たのか、と私は、丁度妹があの経理の御用を頂いておりますから、申しましたら、いや今日のは銀行に入れられません。あれはそのまま支払いに向けたと。ありゃ十日の日にお前、支払い大体すんどったじゃないかと。
 家が十日が支払い日ですから、ところが、あの、特別にこの支払いがしてなかったのが、丁度52万からあった。それを使うてしもう。使うてしまうて、支払ってしまうち。何にそげん支払ったかちうたら、あの石油代じゃった。
 皆さんこうやって暖房のおかげ頂いておりますけれどもね、二ヶ月間で、二ヶ月まだ足らずでです、52万円払いました。
 ほりゃもう、とにかく私もちょっとたまがった。ね。そげん使う(ちょるご?)あのドラム缶二缶平気で使っておる。日に一万何千円と掛かっておる。ね。けれども私はそれを、その燃料代に払うたと聞いた時にですね、そりゃ間違うとらんかという気持ちが先よこりましたけれども、よし例えば間違うておっても、神様がですね、支払いをちゃっとこう、それだけの金額を用意しておられるという事にです、はー、素晴らしいことだなぁ。
 とても燃料何十万という、なら月に三十万になりましょうが、の払いを出来るほどしのおかげを受けておるという事はもうなんと有り難いことだろうかと思う。ね、要約お金が入ってきた。そしたら、もう右から左に出してしまわにゃ、もうほんにがっかりする。一時だん持っときたい。もう出してしまわにゃ。
 こういう頂き方はです、心を害する頂き方なんです。ね。入ってきとった、それが丁度、支払いに。まぁ神様のお繰り合わせち有り難いことだという頂き方が、ね、心を、いよいよいわゆる、心の為に、心の糧になる頂き方。
 いよいよ心豊かに大きくなりましょう。だから、おかげはいやがおうでも、流れて来るように、流れてこんでくるんです。心の糧に頂く。命の為に頂く。だからいよいよ、健康が約束されるように。
 ね、今日は食物はみな人の命のために、ということをです、ね、聞いて頂いたが。なら、命のためでもあるけれども、なら心の糧、の為に頂くという事を聞いて頂いた。同時に、今日はあの、信心はみやすいものじゃがというところをです、私はこの、御神訓の中から、特に強調して聞いて頂いたということです。
 信心ちゃこのようにみやすいもんだと。ね、眼鏡をかけておる人が、眼鏡に対してお礼をいう。お世話になりましたほんに、私共が、こちらそういう入れ歯ですから、それをとったり、外したりする時にはです、おかげでとお礼をいうけれどもね、その前の自分の歯が強かった時分の時には、お礼を言うことも、お世話になりますも言うていなかった事に気付かせて頂いて、これなら皆さんにです、まだなら歯の強い方にです、ね、まだ目は眼鏡をかけんでもよい方達にです、ね、いうなら、私が繰り返した失敗をなさらんで、見せて頂いておることも、食べさせて頂いておる事もです、有り難いとお礼をいうことが、信心の根本、根本のとろこに対して気が付かせてもろうて、お礼を言う事。それが信心だ。
 信心とはこのようにもみやすいものだということを、強調して聞いて頂いたんですけれどね。だからそのいやすいところをです、私は、まずは自分のものにさせて頂かなければです、いわゆる命のため、又は、心のいよいよ糧になるというような、おかげに展開してこないと思うです。
 根本のところを(ボウヤク?)しておったんでは。ね、天地の大恩とこういうけれどもです、何か特別のところに天地の大恩を置かずに、もう本当に目の当たりに、いや身近にです、天地の大恩がある事をです、分からせてもらって、その事に対し、お世話になります、お世話になりました。という感謝の心を込めるという事が信心の根本。信心はそのようにみやすいものだということを、聞いて頂いた。どうぞ。

梶原 佳行